店主は和田商店会新聞・初代編集長

ローソン和田2丁目店

(取材:さくらん)

大学時代はバイオリンを習っていたほどクラッシック音楽好き。「G線上のアリアを聴きながらおいしい赤ワイン飲んだら最高だな」さすが元酒屋の店主。

 「店・人・街が結びついて、新しい街の元気を作りたい」――こんな思いが形となった和田商店街を舞台にする地域新聞「Wadatch(わだっち)」
 実は40年前にも、同じ思いで新聞を作っていた人がいた。


 和田商店会新聞「あおぞら」――その初代編集長が、ローソン和田2丁目店のオーナー・上野利夫さんだ。


商店街を育てるチャレンジ

 父親は滋賀から上京した生粋の「近江商人」。縁あって和田商店街に「竹屋酒店」を創業。その翌年の昭和9年、産声をあげたのが上野さん。
必死に働く父の姿を見ながら、「いずれ自分も店を継ぐ」。そんな思いを常に抱きながら、和田商店街とともに育ってきた。

 高校卒業後は簿記の専門学校を経て大学へ。経済哲学を学び、サラリーマンとしても働いた。
 家業を手伝うようになると、自分たちらしい商店街の形を模索した。
 空襲で2,3軒の家しか残らなかった一帯を、父たち世代が「商店街」として形にしてくれた。
「それをさらに発展させるのは、自分たちの役目」と、若手店主たちとともに、商店街を盛り上げるために試行錯誤を繰り返した。

 上井草で「若草」という新聞が発行されたのを知って、「うちもやろう!」と新聞発行にこぎつけた。
 昭和46年。37才。やる気に満ち溢れていた。

 当時、商店街には同業種である酒屋が3軒。仲間とはいえライバル。商店街も全盛期で、夜は12時頃まで店を開けていた。相当な忙しさだった。

 

 そんな中での「あおぞら」発行。「異業種の店主」「ライバル店の店主同士」――それをまとめるのが編集長の役目。

周りに高い建物もなく、まさに「あおぞら」が一面に広がっていた当時


 「きっと大変なこと、難しいことがあったに違いない」と思ったが、上野さんから弱音や苦労話は聞けなかった。それが、皆から信頼される所以だろう。


 のちに9年間、商店会会長を任せられた。

「これはこっち、あれはあっち」

 話を伺って、和田商店街の不思議な光景が腑に落ちた。
 コンビニが2軒向かい合っている光景――。
 聞くと、20年近くも一緒にその場所で商売をしているという。
 「今度こそ苦労話や自分の店の自慢が聞ける」か、少し楽しみになった。


「コンビニにもそれぞれ特色があるから、『これはこっち、あれはあっち』と便利に使ってくれればいいんだよ」
「コンビニでは会話はなかなか楽しめない。個人の専門店さんで買い物する良さは会話だよね」


 どんどん他の店の良いところが出てくる。人とも、街とも、結びつきを忘れない。
 いい意味で期待は裏切られた。

 40年前からずっと、街の発展を考えてきた大先輩がいる――。
 この街が元気になるのは、ほんの少しの「仕掛け」だけなのかもしれない――そう思った。

 普段何気なく利用するコンビニも、ずっと昔からコンビニだったわけではなく、「やはりそこにも歴史がある」ということをこの取材を通して知りました。

 取材後、他の街でコンビニを利用する時も、昔は何屋さんだったのかな?と想いを馳せるようになり、コンビニを利用するのが前よりも少し楽しくなった今日この頃です。

(2012.11.7 取材:さくらん)