すがやみつる4コマ漫画

和田商店街で駆け出し時代を過ごした漫画家すがやみつるさんに、和田商店街ではぐくまれた思い出を語っていただきました。

ヒットを生むまでの苦労話ーーのはずが、和田の人々のふれあいでなんだかとても楽しそうです。

■すがやみつる プロフィール

1950年、静岡県富士市生まれ。高卒後、マンガ家をめざして上京。1971年より石森プロに所属し、『仮面ライダー』(石ノ森章太郎原作)にて デビュー。その後、児童マンガを中心に執筆し、1983年、『ゲームセンターあらし』『こんにちはマイコン』の2作で小学館漫画賞を受賞。1994年、小 説で再デビューした後、2005年、54歳で早稲田大学に入学。2011年、61歳で早稲田大学大学院修士課程を修了し、現在は京都精華大学マンガ学部で 教鞭をとっている。有料メルマガ『すがやみつるの「おとなの学び方」マガジン』も発行中。(ブログ:http://sugaya.otaden.jp/

■「仮面ライダー」から「ゲームセンターあらし」へ

 ぼくが『仮面ライダー』でデビューしたのは1971年のおわり。蚕糸の森公園が、まだ蚕糸試験場だった頃です。最初は東高円寺駅北側のアパートに住んでいましたが、仕事が忙しくなってアシスタントも必要になったため、翌72年、和田3丁目にあった6畳+2畳+キッチンのアパートに引っ越しました。風呂はなく、すぐ近くにあった「さくら湯」に通いましたが、その状況はマンガのとおり。毎月300ページ以上も「仮面ライダー」や「人造人間キカイダー」「がんばれロボコン」といった石森プロ作品を描き、さらにオリジナル作品まで描いていたので、本当に寝るヒマもない状態でした。
 食事は1日のうち2食が出前。あとの1食はインスタントラーメンで、栄養が偏ったせいか体調を崩し、ダウン寸前になりました。しかたなく郷里で調理師をしていた母を呼び寄せ、メシスタントになってもらったおかげで健康は取り戻したのですが、常時3~4人いるアシスタントに給料を払い、食事の面倒もみて、さらには母の住むアパートの部屋代も工面しなくてはならないため、さらに仕事を増やすことになりました。
 1976年、25歳で結婚した後も、同じアパートに住み続け(仕事場は、すぐ近所に借りた)、なんとかオリジナル作品でも単行本が出るようになり、せっせと印税を貯金して、所沢に小さな家を買ったのが1979年、28歳のとき。ちょうどオリジナルの『ゲームセンターあらし』が始まったばかりのときでした。

■和田に住んでよかったこと

 アパートの部屋には、深夜にも編集者やアシスタントが出入りするため、最初は近所でも怪しまれていたようです。数軒先に住んでいた虫プロ出身の作家さんと編集者を通じて知り合いになったことから、いつのまにか家族ひっくるめての交流がはじまることに。そのうちに、土曜日になると川崎動物病院に出かけては、朝まで麻雀を楽しむことも。和田商店街の方とも、よく一緒に麻雀卓を囲みました。アパートの斜め前には駄菓子屋さんがあって、その向かいにあったアパート(いまは公園)の2階に仕事場を移したときは、ここでも大家さんに呼ばれて麻雀大会。隣の部屋に住んでいた鍼灸学校に通う女性に頼まれて、鍼の実験台になったこともありました。
 この仕事場ではアマチュア無線をはじめ、マンガを描きながら眠気覚ましに無線で会話するようになりました。和田や堀之内あたりにもハム仲間ができて、一緒にラジコン自動車を走らせたことも。無線仲間が見せてくれたマイコンに興味を持ち、やがてパソコンを組み立てて、それが小学館漫画賞を受賞した「こんにちはマイコン」という学習マンガ執筆のきっかけになりました。
 こんなことを書いていたら、「みんな和田から始まった」みたいな気分になってきましたが、それが事実だったのでしょう。

(C)石森プロ・東映 (C)すがやみつる